夕方、おばあちゃんが危篤という連絡を受け、堺市の病院へ。

おばあちゃんは1年前に脳出血で倒れて以来、意識が戻ってなくて、医者の話では戻る可能性はゼロに近く、それでも奇跡を信じて命を繋ぎ止めてもらってたんですが、その願いも虚しく今日に至りました。

去年の6月にお見舞いに行って以来、久々におばあちゃんを見ましたが、息遣いがとても苦しそうで、今夜が峠ということで見てられませんでした。

こんなに苦しい思いをしても結局おばあちゃんの意識が戻って、僕や他の大切な人の名前を呼ぶ可能性なんてほぼ無いのに・・・、何でおばあちゃんは生かされているのか、こんな状態で本当に「生きてる」と言えるのか?
とても悲しい気持ちとともに、口では「頑張れ頑張れ!」と言いながら心の中では「もう頑張らなくてもいいねんで・・・」と矛盾したことを考えてました。

母親もおばあちゃんの苦しむ様を見て、前までは「早く意識戻って、またうちにも呼びたいなあ」とか言ってたけど、今日は「今までよく頑張ったね」って涙ながらに語り掛けてました。

僕ら家族はとりあえずの峠である今晩は病院のソファーで過ごしましたが、何とかおばあちゃんは峠を越えて息遣いも正常なものに戻りました。

まだ頑張るおばあちゃん。
やっぱりまだ生きたいんだろうか?
安楽の死より苦しみの生なのでしょうか?

それなら僕は、まだ奇跡を信じるしかありません。
峠を越えるごとに確実に小さくなっていく命の灯火ですが、それでも生きてる限り奇跡も起こる可能性はあるということです。

おばあちゃんは沢山いる孫の中でも、特に僕を好いてくれていて、いっぱい良くしてもらいました。

それなのに僕はまだ自分一人で歩けるはずなのに歩けていない、家族に頼った落伍したフリーター人生を送っています。
正直顔向けもできません。
何とかおばあちゃんが生きている間に、例え声は届かなくとも、良い報告が出来ればと切実に思いました。

せめて一歩ずつでも半歩ずつでも前に進んで行こう・・・。

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